戸惑いの声を上げた次の瞬間、騎士は同僚の頭を殴り、気絶させた。その騎士の顔が、ゆっくりと兵士を向く。その顔は人の物ではなかった。目は血走り、口からは唾液を垂らし、頬の筋肉は変なふうに引き攣って硬直している。「ひぇぇっ」兵士は二度目の悲鳴を上げた。彼は尻もちをついたまま、必死で後ずさろうと足を動かすが、震えて力が入らないのか、なかなか思うように体が動かない。そうこうしている間に、騎士は距離を詰め、剣の間合いとなった。騎士が剣を振りかぶる。もうその瞬間には、兵士は体を萎縮させる事しか出来なかった。その時、二人にとって死角から、掛け声が一つ上がった。「今だ!取り押さえろ!」数人が騎士に飛びかかった。騎士は倒れるように抑え込まれる。間一髪、事なきを得た兵士は、ほっと息をつきながら、ゆっくりと後ずさった。「こいつも魔族か!?」「いや、騎士様で間違いない。ノーザック様だ」「まさか変装か!?」「魔族や魔物が変装など……」野次馬のように兵士が集まりだす。皆口々に意見を言い合う中、一人の男が兵士の手を引っ張り、助け起こした。その男に対し、兵士は聞く。「な、何が起こってるんだ?」「分からない……ただ、外はもっと酷いことになってるんだ。人間に変装した魔族か魔物か?いやしかし変装ってのは……とにかく、仲間の姿をした奴が暴れてて、ぐちゃぐちゃなんだ」「はあ?」兵士はよく分からないといった顔のまま、覚束ない足取りで外へ向かった。そして石窓から戦場を見て、驚愕する。日が沈みかけた夕暮れの荒野。本来ならばそろそろ撤退の指示が出そうなものだが、その気配は一切ない。陣形は完全に崩れており、統率が取れている気配はない。同じ形式の甲冑を着込んだ者同士が、あちらこちらで争っていた。「な、なんだこれは……」呆然とつぶやく。次の瞬間、外を見つめる兵士の後方から、うめき声が聞こえた。後ろを振り向くと、先程暴れていた騎士姿の男が、抑え込んでいた数人を引き剥がしている所であった。魔動鎧が生み出す膂力は、数人で押さえ付けるには足りなかったのである。剣を振り回し、その傷を一々舐めていく行為を、兵士はただ唖然として見つめるしかなかった。状況の変化についていけなかったのである。全員の意識を失わせ、騎士がさらに歩き始めた所で、兵士はようやく我に返った。彼の本来の職務は救護施設の警備である。そして騎士が向かう先には救護施設があった。職務に関わることであるがゆえに、思考が現実に引き戻されたのだ。「ま、待て!」兵士が静止の声を掛けるが、そんなもので止まるわけがない。結果として、彼は救護施設への侵入を果たした。「光様、もう少し休んで頂いても大丈夫です。今は早急な治療が必要な患者はいません」「でも軽症の人はまだいるでしょ?充分休んだわ」淡々とそう言った光は、彼らの柔い制止を受け流し、負傷兵の元へと向かった。(慣れてきたのかな、吐き気もあんまりない)見るも痛々しい兵が運ばれては治し、運ばれては治しを繰り返し、魔力が少なくなれば少し休む。そんなことをどれだけ続けただろうか。最初はその屠殺所と診療所の空気が混ざったような環境に居るだけで、時折喉の奥から溢れそうな何かを、大きく息を吐いて誤魔化していた物だった。今では薄い嫌悪感が、脳にこびりつくだけだ。(……慣れていいものなのかな)考えないようにしていた。異世界に来てから新しく築いた日常。それすらも乖離していくような、自分の立っている場所がどこなのか分からないような、そんな感覚。この状況に慣れたとき、果たして自分は日常に帰ることが出来るのか。そんな疑問を抱く事が恐ろしかった。光は軽症の負傷兵の元についた。彼は切り傷などはなく、体の所々に痣が見られる他、多少のかすり傷と、捻挫があるだけだ。ズキン、と。光は頭の奥に、鈍い痛みを錯覚した。(重症の人の方が見るに耐えられるってのも、皮肉な話よね)内心で自嘲しながら、彼女は光魔法を行使した。痣が消え、捻挫をした足首の腫れが引いていく。「お見事です」「ふぅ……」負傷兵の表情が和らいだ所で、光は回復を止める。その時、壁の外から喧騒が聞こえてきた。「……何かあったのかな?」「少し見てきます」独り言のような光のつぶやきに、隣にいた衛生兵が答えた。彼自身も外の様子が気になっていたのである。彼がドアノブに手をかけた瞬間、扉が勢いよく開いた。内開きであったため、衛生兵は扉に吹き飛ばされる形となった。「グわっ……な、なんだ!?」上半身を起こし、蝶番が壊れた扉を見る。そこには魔動鎧を装着した騎士がいた。騎士はそのまま剣を振りかぶり、床に座り込んでしまった衛生兵に斬りつけようとする。「ら、ライトニングアロー!!」その状況を見ていた光が、慌てて攻撃魔法を使おうとする。しかし魔法陣を描く段階になり、その紫色の線が途中で大きくブレた。(やっぱり駄目なの!?)加護で補助されるはずの術式構成段階すら阻害する、彼女の精神的外傷トラウマ。それはスポーツ選手の、例えば野球の投手が突然ボールを投げられなくなる、イップスのそれに近い。(だったら……ごめん!)咄嗟に光は、別の魔法を発動しようとする。次の瞬間、騎士の剣が衛生兵の肩を捉えた。鎖骨が折れる音、服に血が滲み、彼のうめき声が部屋に響く。「エリアヒール!」光が発動したのは、範囲回復魔法である。彼我の距離感を掴みかねた事から、大は小を兼ねるが如く、絶対に衛生兵を回復できる範囲で回復させたのだ。しかし副次的に、操られた騎士の腹の傷も治すこととなる。騎士は衛生兵の肩口にある塞がった傷跡と、自らの腹を交互に見る。そして次に、光に視線を向け、彼女の方向へ走り出した。「ぇ……あ……」一瞬で間合いを詰められる。頭では、逃げる方策の思考が巡る。しかしどうしても、彼女の体全体が竦み、動けない。脳裏にフラッシュバックするのは、暗い部屋の光景。何度見たか数えられない悪夢だ。下卑た笑み。酒臭い息。拳を振りかぶる父親。ひたすらに痛みの記憶。庇う自分の手はかすり傷と痣だらけ。どんなに叫んで泣きわめいても、それは痛みを加速させるだけだ。だから何もしない。何も言わない。ただじっと、飽きるまで我慢すればいい。騎士が剣を横薙ぎに振るおうとする。光は思わず目を瞑った。瞼に押し出された涙が、目尻を伝う。「雄一君……!」助けてほしかった訳ではない。ただ意味もなく、彼の名を叫んだ。騎士が音を立てて振った剣は、甲高い音を立て、光の体を斬る寸前で止められた。光は恐る恐る目を開ける。そこには大きな背中があった。「遅くなってごめん!」背中の奥から、耳に馴染んだ声が聞こえてきた。雄一の声である。彼は魔動鎧に見を包み、肩で大きく息を切らしながら、自らの剣で騎士の攻撃を受け止めていた。雄一は魔動鎧に魔力を流しながら、騎士の剣を大きく弾く。騎士は少し体勢を崩しながら、後ずさった。「ゆ、雄一君……」「光……無事でよかった」呆然と彼の名前を呼ぶ光。雄一は光の体を見て、傷がついていないことに安堵する。その時、騎士が体勢を立て直し、剣を構え猛然と突進してきた。剣の切っ先は雄一を向いており、突き殺さんとばかりの姿勢である。彼女の心の中で、悲鳴が光った。(──殺される!)彼女の中で、過去の光景と今が重なった。血だ。手に伝う薄い赤だ。酒に酔い、何かに激怒している父親が、床に落ちていた包丁を持ち、こちらに向ける。それまで殴られていた母親が、目を見開いて何かを喚きながら、彼女を背中でかばう。小さくて重い衝撃と振動。一気に酔いが醒めたのか、青ざめながら包丁を放り投げて、覚束ない足取りで、何度も壁にぶつかりながら逃げていく男。女は赤い液体で濡れていて、トクトクとそれが溢れていく。暗い赤色の何かが隙間から溢れる。「死」だ。攻撃とは「死」だ。天地が傾き世界が揺れる。小刻みに右左右左。視界は真っ暗で、バランスを取らないといけない。転びそうになる。ここからの帰り方が分からない。必死にしがみついた。「──甘い!」雄一は光の体を横抱きにしながら、剣で騎士の突きを逸らす。そのまま軽く剣の柄で、騎士の頭を小突いた。「うおおおお!」右足で騎士の胴を蹴たぐる。魔動鎧の力が上乗せされ、騎士の体は大きく吹っ飛び、反対側の壁に激突した。「ごめん光!ちょっと危ないから下がってて!………光?」横の光を覗き込んだ雄一は、彼女の顔がひどく青ざめていることに気づく。目の焦点が合っておらず、しきりに雄一にしがみついていて、声もまともに届いていない様子であった。「光!!」「ぇっ……あ……」雄一の大声に、光ははっとした様子で彼の顔を見返し、次に壁に座り込んだ騎士に視線を向けた。「ご、ごめん!ちょっと訳わかんなくなってた!」「……そう」その時、壁際の騎士が剣を床について起き上がって来る。「ま、まだ倒せてないの?というか、何で騎士が?」「敵に操られてるんだ。質たちの悪い事に、死ぬか手足を切り落とされないと止まらない」意識を失うことに耐性があるのか、或いは意識を失っても直ぐに意識を取り戻しているのか、その判別はつかない。しかし、少なくとも先程戦場を駆け抜けた際、雄一は殴るなどして意識を飛ばそうとしたが、それはかなわなかったのである。騎士は雄一の実力を警戒してか、距離をとったまま様子を見ている。その間に雄一は、思考を巡らした。(診療所の内部から操られた兵士が出なかったのは好都合だった。多分、光の回復魔法で解毒できたんだ。でも、さっき遠くから僕に回復魔法がかかった。多分範囲回復。それでも騎士が操られたままだって事は、洗脳済みの兵士たちを開放は出来ないってことか……)そして、負傷兵を救護施設に運ぶプロセスも、練度の低さ故にグダグダであった。結果として、救護施設に届く前に催眠された兵士が多かったのである。(ここで騎士を倒しても、戦線が崩壊すれば砦に魔物が流れ込んでくる。そうすれば終わりだ……)雄一は窓に目を向ける。西側につけられた窓で、ちょうど陽が山に隠れ終わる所だった。(日は沈んだ……なら、やるしかない!)雄一は鎧の中から石を取り出した。聖剣の元となる石であり、雄一は未だに使ったことがない。加護を発動できて初めて、聖剣は武器の形を取るのである。「雄一……それ……」光が石を見て呟く。騎士は雄一の行動に警戒し、剣を構えた。魔力を流された石は、救護施設を覆うほどに光り輝く。光が収まった時、彼の手の中にあったのは──「ノート……?」なんの変哲もない、地球にあるノートであった。その表紙には「創作ノート」とマッキーで書かれている。「『ノート』発動!」加護の発動と共に、雄一のノートがひとりでに開き、中のページがバラバラと分かれ、彼の体の周りを回り始める。ページ一枚一枚が淡く輝いており、とても幻想的な光景である。ページはやがて彼の体を覆い尽くし、輝きとともにパッと散開した。眩しさに目を瞑っていた光。彼
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